まめな人。活動日記

私の中で思う事

まめな日記 その6 ~ゴミの分別~

私だ。今日も京都とて(誤字)日記を書く。

あと今回からサブタイ(笑)なるものをつけた。読み返すときの目印にしておこう。

 

今日はゴミの分別について考えていく。

 

今日起こった事にこんな事があった。

 

「ゴミの分別ができていません、今後しないなら警察を呼びます」

 

は?

 

今日マンションの管理会社からきた電話の案件はそういう内容だった。

正直全く身に覚えがない。

 

五限が終わり、スマホを見て、不在着信があったので電話をかけたらこの内容を聞かされた。

 

管理会社いわく

「○○さん(私)の名前の入った物がゴミに含まれていたので電話した」とのこと。

 

せっかく、最近調子が上がってきたかと思いきやとんだどんでん返しだ。

 

そもそも私はわざわざ怒られるようなことをやらない。

 

学生生活然り、バイト然り、部活然り、どんな事でも「怒られないようにする」事を意識して取り組んでいるつもりだ。だって、わざわざ怒られたら時間取られるし、めんどくさいし...。なのに、何故怒られなきゃならん。

 

という事もあるので

 

先ほども言ったように全く身に覚えがなかった。

しかし、管理会社の方はカンカンだった。おそらく、うちのマンションはゴミの分別に対して適当な人が多すぎるからゴミ問題は今回の件だけではないのだろう。まあ、私もコンビニでバイトしている分ゴミの分別にはうるさい質だが。(コンビニで適当に捨てる人は結構多い)

 

だとしても、警察を呼ばれると言われたからには相手方も相当ストレスが溜まっていると見える。「お疲れ様です」と皮肉を込めて言ってやりたい。

 

正直な所、ゴミの分別に関して注意されたことは大して根に持っていない。

だって、無意識に何かを間違ってしまう事はしょっちゅうだし、やっていないなんて断言する事も難しいから。証拠もないしね。

 

だ、と、し、て、も

 

一概にこいつもマナーが悪いやつの一人なんだろ、みたいに決めつける言い方は非常に気に入らない。

 

電話越しにだが、管理会社は明らかに私が普段から真面目に捨てていないような言い方をしてきた。確かに今回分別されていないゴミっていう物的証拠があるし、そういいたいのはわかるが、そうやって偏見を押し付けるのは良くない。

 

うちのマンションのマナーが悪いと言ったって全員が全員マナー悪くゴミを捨てているわけはない。(んな事したら大惨事になるわ)

 

だから、ストレスが溜まっていると言っても極端な言い方をすれば相手はむかつくし、(やらないけど)マナーを守る気なんて失せてくるだろう。少なくとも私は失せてくる。

 

言葉はボールと一緒

優しくパスすれば、相手はちゃんと拾ってくれるし、投げつければ投げつけた分返ってくる。

 

まさしく因果応報だ。やればやった分だけ返ってくる。

 

しかし、今回の件を教訓にするならより分別に対して意識を向けられるようになった事だ。

 

大人になるほど怒ってくれる人はいなくなる。

この言葉を私は今大学三年生を迎えてだんだんと味わいつつある。ましてや、普段怒られる状況にならない人にとっては今回のように叱られる経験というのは、教訓以外の何物でもない。

 

明日からゴミの分別は気を付けよう。

事前に確認しておこう。

ちゃんと捨てられていれば明日も良い日だ。

まめな日記 その5

今日はちょっと宗教についても考えたくなったので書く。

 

宗教、と聞くと「危ない」「洗脳」「オウム真理教」なんかが出てくる。少なくとも私の世間一般演算装置はそう言った。しかして、私の本心はというと宗教に対して「鬱陶しい」がほとんど。

酷く親近感が湧くような考え方。

 

私の人生、「宗教」というのは何者にも代え難い「否定」と同様の扱いの代物なもんで。

「こういうのがいいんだよ」「これをするべきだよ」「これをすれば絶対救われるから」、宗教勧誘でもよく聞くフレーズ。

実際よく聞く。

 

しかし、このようなフレーズは相手の生き方を「否定」していると何故気づかない。

 

「これがいいんだよ」「これをすれば救われる」といった言葉は相手の人生を

一見いい方向に導いているように見える。

選択肢を与えている。

相手の選択肢を良くしようとしている。

 

ように聞こえる。

 

少なくとも相手はそう言っていたんだろう。

しかし、それは

「私の言った事、成功している皆が言っている事を君がしないことは間違っている」と同義じゃないのか。

 

これは極論かも。

でも、そう思ってしまったんだから仕方ない。

 

確かに成功したのかもしれない。そうすると良くなるのかもしれない。

 

でも、それは「あなた」の価値観であって「わたし」の価値観じゃない。

あなたはわたしじゃない」(〇マたくさんから引用)

 

そう、あなたにとっては正しい事でも、私にとっては正しくない。ふさわしくない。合わない。これが本音。

 

価値観の押しつけは良くないだろう。

何故理解できない。

 

なんだ、おまえたちのやりたいことは当人が嫌がっている価値観を押し付ける事なのか。

 

とまで言ってしまうとただの愚痴になってしまう。

 

言いなおそう。

 

あなたたちは「ゴミを食べるのは体にいいのでやりましょう!効果は出ています!成功者もいます!やりましょう!」と言われてやるって事ね。

 

要は、相手にとって嫌な事って言うのは未知で目立って、明らかに自分の価値観的には汚らわしい、鬱陶しい、煩わしいって事を押し付けるって事。

ってやっと最近言葉にできた。

 

 

日本に生まれたからなのかもしれないけど、人と違う事は嫌だって教え込まれているんだ。

目立つ事がプラスだと考えられなければ嫌だし、考えたくもない。

 

なのに、「○○でもいいから初めてみようよ」と進めていくのは傲慢すぎやしませんかね。

 

私は私だ。

誰に言われたからやるっていうのは気に入らない。

プラスだと思えなかったらもっとやりたくない。

それが私の考え。何者にも代えがたい私の考え。

 

 

「これは凄い考え方なんだよ?」

「これは自分を動かしてくれる原動力なんだよ?」

 

こんな考えを”聞くだけ”ならいいよ。

しかし、一見して良いと思えない時点でそれが良い物なのかわからなくないか?

 

これは思想に関してはかなり明確。

 

思想は自分にとって良い、悪いが判断しやすい。

 

友達と仲良くしない事が良いことです!

家族と仲良くしない事が良いことです!

 

果たしてこれを聞いて良いか悪いかなんて明確だと思う。

 

「いやいや、友達と仲良くしすぎるのは良くないよ!」

 

いや、聞いてない。

 

そこにあからさまにダメな理由があるなら認める。

 

あなたたちの場合あからさまに宗教をやって良い理由が無い。

 

じゃあプラスじゃないじゃん。

 

素直になりましたが、何か。

 

こういう事ですが。

 

あなたたちが私に良い人生を歩んでほしいのも、幸せになって欲しいのもわかる。だって、言ってくるのは家族だから。

 

でも、他人から押しつけがましくして丈夫なほど私の人生は甘っちょろいもんじゃない。

 

考えられるならもっと考えて。

家族、が一番なんでしょ?考えてよ。

 

あなたたちは私が友人=家族くらいの価値があると思ってたら悲しいんでしょ?

だったら、相手の考えを覆せるくらい考えてよ。

 

少し熱くなってしまった。

 

自分勝手で理不尽でぶっきらぼう

それが人間だ。

 

宗教はそんな人間の中に共通項を見出した文化だと思う。

もしくは共通項を生み出す文化だと思う。

 

でも、その共通項に人を勝手に押し込むのは良くない。

家族がそうだから、おまえもそうなってるは違う。

 

気持ち悪い。自分が。

苦しい。なんでこんな事考えなくちゃいけないのか。

 

人間だから。

おまえが人間だから。

まめな日記 その4

今日は少し余裕があるので日記を書いていく。

 

最近はゼミやら、課題やら、友人関係やらで追われる毎日だ。

こんなに忙しいのは何年ぶりだろう。鬱陶しいが、楽しい毎日だ。

 

しかして、一つの疑念を抱いた。

私は本当にこんな毎日を好んでいるんだろうか。いや目標からは遠退いているのだろう。

 

友人と会い、話をして、やれ推しはなんだの、やれ天気はなんだの...今日の晩飯を考えて、洗濯物を干し、明日の講義の確認をする。

 

そんなこんなで家でまったり。

 

日記では語った事は無いが、私は常に「充実感」を目指し行動している。楽しむ事も大事だが、何よりも自分に「プラス」になる事が重要だ。

 

損得勘定で行動するな、と言われそうだが今は他人の意見なんてどうでもいい。

 

以前自分は何をやっていた。

家で課題、家で会話、家で洗濯、家で講義。

そして、次何をしたら「プラス」になるだろう。と考えてはずだ。

 

環境、というものは人を鈍くさせる。

いざ、話せる環境、自分が一定水準以上「満足」できる環境ができればそれで人間は考えなくなってしまうものだ。

 

私はもっと上にいきたい。

完了主義ではなく、完璧主義にしよう。

 

人間的な生活に正解はないが、完璧はある。

しかし、人間は完璧にこなす前に年老いて死んでしまう。

だから、「完璧な人間はいない」と言われる。

だが、それで終わったら人生面白くないだろう。

 

面白いことは「プラス」な事。

面白くないことは「マイナス」な事、つまりは死だ。

 

面白くないことになってしまっては人間的に死んでしまう。

それで肉体的にも寿命を終える?考えたくもない。

 

人間は精神的を病むと寿命にも影響するらしい、延びたり縮んだり。

そりゃあけったいな話だなと思う。

 

なら、少しでも「プラス」に生きて人間らしくいこうじゃないか。

 

自分の人生だ、何をやっても自由だ。

自由、だけど失敗正解がつきまとう。

 

じゃあ目指すのは自由な正解?

 

自由な正解?なんだそれは。

じゃあ正解の自由?これもしっくりこない。

 

考えてみたが、結局あんまりしっくりと来るものはなかった。

 

だが、考えてみると正解だけやっている人間は失敗を経験していないとその後の対処法がわからずに頓挫してしまう可能性がある。

 

なら、目指すのは。

 

正解になれるような自由。じゃないだろうか。

 

正解、失敗の経験関係なく最終的に正解になればこっちのもんだ。

 

自分の人生は自由なんだから。

まめな日記 その3

今日も今日とて日記を書く。

 

今日は、久々のバイトに行った。行く前はものすごーく行きたくない気持ちがMAXだったが、行ったら行ったで接客が楽しくて行く前の気分は綺麗さっぱりなくなった。

 

それにしても、人と絡みまくるのは好きじゃないのに接客が好きなのは、あんまり作りこまなくてもコンビニ内での自分が出来上がっているだからだろうか。

 

めんどくさい客、こういうのも接客すること自体は自分にとっては結構楽しかったりする。ゲームの攻略、とまでは行かないが相手が何を次に言うのか、何を欲しがっているのか無意識的に予想しているのが楽しいからなのかもしれない。結局のところ仕事中はあんまり考え事を挟まずに行ってしまうせいではっきりしたことはわからないが。

 

でも、こんな余裕を持って、バイトに取り組めるのはやっぱり大学の講義がないからなのだろう。

 

大学の話題はいつも自分を不安にさせる。

将来の事、課題、成績、そういった関係の話題はやはり自分の感情を不安定にさせる一端になっていると小中学校時代から思う。

 

なぜかと考えると、自分は評価をされるのは好きだが、評価そのものに疑念を抱いてしまう場合が多く、それぞれの評価によって「おまえはこういう人間だ」と自分を再定義されている感覚に陥るからなのだと思う。

 

いつもながら考えすぎだと自分でも思う。ただよく考えると「考えすぎ」という考え方そのものが主観であるなら自分はほんとに何かを考えているのかという感覚に陥る。

 

人に言われているわけでも、機械が判定したわけでもない。

ただ自分で「自分は考えすぎだ」と意見を言っているだけに過ぎない。

 

と、また自分は考えすぎてるんじゃないかと思う。

このままでは自分の考えている事だけで一種の物語ができてしまう。

 

まあ、そのうちやろう。

面白そうだし。

まめな日記 その2

今日も日記を記そうと思う。

 

今日は寝起きが最悪で活動を始めたのは夕方頃だった。自分はいつも午前中に起きないと活動する意欲が起きないし、ベットから出たいとも思わない。

いられるなら、ずっとベットで寝てたいと思う。

 

ただ、今日は最近自分の好きな事ができなかった分、ゲーム実況と編集に時間をあてられた。ご飯も事前に用意できていたし、やはり2年も一人暮らしをすると何でもスムーズにこなせているのではないかと感じる。好きな事をやるにしてもやらないにしてもいずれもこうやってスムーズにいかないとイライラしてしまうから慣れというものは偉大だと思った。

 

実況の完成度はまずまずだったと思うけど、やっぱりこういうのは実際にプレイしているときが一番楽しいし、何より編集するときに自分の声がとても楽しそうに聞こえる。

長年ゲームをやり続けた功績とも言えるかもしれない。まさにこれこそ、ゲーム好きの特権だと思った。ホラーゲームっていうのは怖かったけど。

 

明日からまたバイトが再開する。

いつからか前は「バイトだるい」なんて思うのが八割だったが、今は「行ってもいいかな」という気持ちと五分五分になっている気がする。

 

大学では特に何かあるわけではないし、バイトでも何かあるわけじゃないけど、バイトの方が数行ってる分何か起こる可能性が高いし、だから五分五分なんだろうか。

 

でも、来週のバイトの補充に参加したのは失敗だった。できるだけ何もない日を増やしたいのに何で自ら予定を入れてしまうんだろう。良心という言葉は使いたくないけど、店長から頼まれてしまっては、休んでいた分良心が痛むから請け負ってしまうんだろうか。

次からはもっと自分の意思を伝えられるようにしよう。

明日から、また自分らしく、自分のために生きられるようにしよう。

まめな日記 その1

今日から日記をつけようと思います。

といっても、私の思ったこと、悩み、出来事をそのまま記すだけですが。

 

3月4日金曜日

 

今日は学校に行きました。

大学でバイトしないといけなかったからです。私はバイトリーダーも任されているので嫌々登校しました。

私は、集団をまとめるのがものすごく苦手です。一対一ならまだしも、集団の意見を集約させて良い物を作るという能力と、皆を先導する能力が欠けていると感じます。

だから、バイト自体行くのが憂鬱でした。

結果としては、自分なりに上手くいったと思います。

準備もできましたし、的確な指示も出せていたと思います。今日は本番前のミーティングという事もあって緊張しましたが自分に60点をあげたいです。

でも、他の子たちはどう思ったんでしょうか。偉そうにしていて、うざい、と思ったのでしょうか。考えるだけ無駄なのかもしれませんが、やっぱり考えてしまいます。

 

その後、暇つぶしにアニメを一気見してから一気見したアニメの以前放映された映画をネットで見つけて見ようと思いました。まだ、映画を見た事がなかったので気になっていたからです。

感想としては中々面白かったです。映画ならではのカメラワーク、感動、何よりも泣けるシーンがたくさんあるのが印象的で個人的にナンバー1にしたい映画ナンバー1です。

 

でも気になったのは映画の中で、主人公が初恋の人を救うために事故に遭うか生き残るかどちらかを選択するシーンがありました。しかし、事故に遭うという事は、同時に主人公が亡くなる事を意味しているわけでこれを知ったヒロインやほかのキャラクターは「事故に遭わないで欲しい」と泣いて懇願していました。

私はこれを見て「羨ましい」と思いました。そして同時に悲しくて怖くなりました。

 

私が死ぬとなった時、何人の人が泣いてくれるのか。

何人の人が止めてくれるのか。

 

そう考えると、恐怖と悲しみが募って泣いてしまいました。おそらく、私が泣くときはこうやって自分に当てはめて自暴自棄になった時なんだと思います。

他の人は多分違う理由で泣くことができるんだろうな、羨ましい。

 

でも涙はストレスを軽減してくれると言います。しかし、私は映画を見た後寂しさと悲しさでいっぱいになって結局こうやって日記に逃げてきました。

 

こう考えると涙はストレスを軽減させるのではなく、改めて色々な事を気づかせてくれるものなのかなと個人的に感じました。

 

無理せずに、生きましょう。

あっけない結末

今日成績照会の結果をもらった。結果は「欠」のままであった。

 

はい、どうも昨日ぶりですねまめまりです。

皆さんは成績照会というものをご存知でしょうか?まあ、言葉を知らずとも「照会」というからには「成績関係の物確認できるんじゃね?」と思うのではないでしょうか。私も実際そうでした。

 実際はその通りの制度です。成績照会とは前期後期末や学年末などに開示される学校の成績に対し不備、疑問があった場合「これ、なんでこういう評価なんですか?」と成績に関して説明をしてもらえたり、もしくは「この評価には納得いかないので直してください」と成績を訂正できるチャンスがある制度の事になります。

 

 この説明で成績照会の印象が「え、なんかそれって怖くね?成績に対して異議申し立ててるみたいじゃん」とも思うでしょう。まあ、実際にはその通りですね。疑問、不備と優しく言ってはいますが、結局は成績に納得いかないから異議を申し立てているだけの話です。

 

 私は先週あたりにこの成績照会に行ってきました(まあ、理由なんて説明する必要ないですよね?)。具体的には大学側から提示された書類を提出しただけなのですが、ある講義、ここでは「K文学」としておきましょう、これに対して異議がありました。成績の結果だけ申し上げると評価は「欠席」となっていました。最初は「はあ?」と思いましたね。

 

私このK文学の講義、結構講義中も不満が多くてですね。教師も講義に関してロクな説明しないし(コロナだからもっと具体的にやって欲しいのに)、不備があれば「学生の能力不足」で片付ける人でした。学生からしたら「あー...」ってなるかと思います。まあ、でもここで印象操作したらただ悪い先生なんで訂正しておくと、ただ悪いだけではなく、講義自体はとても面白い先生でした。ある文学作品を分析する講義だったのですが、先生の視点が面白くて個人的にはとても惹かれる講義でした。おかげでこの評価には幻滅せざるを得ませんでした。

 

 基本的に「欠席」という評価は(私の大学の話ですが)、五回欠席したらなるというものです。まあ、当たり前と言っちゃ当たり前ですよね。そりゃあ、そんな欠席していたらまともな評価なんてもらえません。ではなぜ、この評価に対して納得いかないのか。簡単です。私は全講義に出席していたからです。

 

 この講義は、オンラインと対面とで3:7という具合の割合(全部で15回の講義)だったのですが、私の大学の地域は緊急事態宣言や感染者数のオンラインと対面とで交互にやる必要性があったんですね。感染者が多くなればオンライン、少なくなれば対面といった具合に。ですから、対面は特に出席すれば問題ないですが、オンラインだとこっちからネット上で課題を送ったりなどしないと出席かどうかが判断できないという状況でした。まあ、教師側もそのくらいでしか判断しようがありませんよね。だから、面倒くさいとは思いつつも毎回課題を提出して出席になっていると思っていました。

 

し・か・し、評価は「欠席」。「はあ?」ってなりません?。毎週毎週、読みたくもない本を読んで、他の課題もある中1000文字も2000文字も書いて、提出したのに評価が「欠席」って...。私、普段自分ではあまり怒らないほうだと思ってるんですけどこの評価を見てため息と舌打ちが続けざまに出ました(笑)。これが、「不可」とかだったら、まあ「自分はそこまでできてなかったんだな残念」となれるんですけどね(したくはないですが)。でも課題も全部提出してこちらはなんとか対応しているのに勝手に欠席になっているのが許せなかったです。

 

 ですから、今回成績照会に臨みました。多分今日から数えて一週間前くらい。凄い緊張したんですけどね(笑)。だって、自分の成績に異議申し立てるのなんて初めてだったし、大学内で成績照会の印象がどうなってるかわかんないから窓口の人に辛辣な目をされるんじゃないかって怖くなりません?まあ、杞憂だったんですけど。普通に書類も受け取ってくれて、普通に「後日電話します」って対応されて終わりました。

 

 まあ、でも成績照会したとは言え私は半ばあきらめていましたね。本来なら、正当な(一応私の中では正当な)評価をしてほしいんですけど不備があったら、「学生の能力不足」で片付ける人ですよ?期待なんてできないですよね。「評価は変わりません」この一言で終わると思ってました。

 

 あと、今回成績照会なんてするの初めてだったので、実家にいる母に電話してみたんですが私の中で評価に対する怒りが凄くて「意味不明、わからん」の嵐だったので、ほとんど愚痴になってしまってました。でも、コロナのストレスとかもあったんでしょうね。なんせ、いつも「今日は人と話したっけ...?」って考えているみたいですから(笑)。

 

 と、なんだかんだ来て今日電話がきました。シャワー上がったら急に電話がきて凄い驚いてましたけどね。内容は「学生証を持って○○学部窓口まで来てください」とのこと。「ちょうど大学で手続きする予定あるしラッキー」と考えて大学に向かいました。

 

 でもさっき、成績照会したとは言え半ばあきらめていたと話をしたと思います。まあ、半分くらいは期待してませんでした。理由はさっきにもお話した通りです。だけど、残り半分くらいはちょっと期待している面もありました。「学生証持っていくって事はもしかしたら評価の変更があった…?!」と思ってたんです。まあ、淡い期待だったんですけどね。

 

大学で書類を受け取って、あった評価は変わらず「欠席」。先生のコメント欄もあるのですが、そこには「課題が白紙ものが多く評価も欠席にしました」とのこと。先生に直接一言いいたいです。「白紙で出すわけないだろ!〇カタレ!!!」と。

 

とまあ、大学で受け取った評価は「欠席」のまま。そして現在に至るというわけです。(2021年10月4日)。今まで変に先生を評価してた分が爆発したんでしょうね。せっかくブログを始めたからなのだと言わんばかりに帰宅後すぐにこれを書いています(笑)。

 

  どうなんでしょうね。これを受け止めるべきなのか。先生をただ批判するべきなのか。私にはわかりません。

 

 でも一つ私からアドバイスというか教訓です。ただ悪いことだけ引きずると後が辛いです。友達がいるなら友達と遊んだり、好きなゲームで遊んだり、私みたいに文章で発散するのも良いでしょう。一度忘れてください。そうすれば、「あの時なんかあったなー、むかついたなー(ゲラゲラ)」くらいにはなります。あと、大学生なら理不尽な評価を付けた講義の先生になるべく当たらないように履修を工夫しましょう。こうやって思い出さないだけで自然と消化されていきます。

 

 社会人の方でも、私のような大学生でも理不尽な評価を受ける事はあるでしょう。もう、それは仕方ありません。あなたにも個性があるように、先生やお客さんなどは十人十色です。しかし、ただ受け止めるのは後が辛いので、まずは理不尽な環境に身を置かないようにすることから始めましょう。理不尽な人は私から離れてっていうのは難しいと思うので。社会人の方で部署に嫌な人がいるなら、違う部署への移動を求めたり、転職を考えてみたり、大学生なら嫌な先生の講義の代わりにちょっと頑張ってほかの科目を履修してみたり手は色々とあります。あとはあなたがやるかどうかです。

 

 自分の環境は自分で整えましょう。お互い頑張りましょうね。

ではまた。