まめな人。活動日記

私の中で思う事

まめな日記その12 ~工夫~

ハクメイとミコチ』は神作品(以下”HM”とする)

 

今日も今日とて日記を書く。

 

一人暮らしをしていると、「生きる」ということについて心底考えさせられる機会が多い。

 

昔にも書いたかもしれないが、炊事、洗濯、掃除がたまの暇つぶしや趣味ではなく生業として成り立たせなければいけないのが一人暮らしだ。

いわば、”一人暮らしの三大欲求”といった感じだろう。どれが欠けても充実とした、というか必要最低限の暮らしはできない。

 

だが、そんな日々の活動の中で感じるのは自分は生きているという感覚だ。

これは友達と一緒に居る時でも、家族団欒をしているときでも体験することはできない。

 

最近、HuluでHMを見ている。

HMとは、僅か3~4センチ足らずの小人の主人公たちが生を楽しむ事をテーマとした。作品だ。

 

彼女ら(主人公は二人いて、どちらとも女の子)は前述した身長でありながら、自身の何十倍も高くて大きい木や動物や植物が存在する森の中で暮らしている。

 

よって、充実した生活を送るためには”工夫”が必要不可欠なのだ。

 

例えば、我々にすれば数十センチの石っころが、彼女らにしてみたら数メートル級の大岩になりえるわけだがこれを利用するという話がある。

 

細かい説明は省くが、彼女らがこの大岩を利用するためには割る必要があったのだが、彼女らはスイカの種を利用する事によってこの大岩を砕く事に成功した。

 

これはまさに、工夫を体現したようなエピソードだが、普通ならスイカの種を利用して大岩を割るなんて発想は生まれないだろう。

 

このような発想なできる時点で彼女らは普段から工夫を凝らして暮らしている事が大いにわかる。また、彼女らは人生を有意義に暮らすため、要は「楽しむ」ために生きている、という事も理解できる。

 

私は「つまらないのが人生だ。だが、それを面白くすることも人生だ」といった事を考えて日々を暮らしている。

 

自分が危機的な状況に陥っても、普段から嫌な事があってもこれを考えていれば、「次はなにをするべきか」と切り替えて考えられる。

 

最近は、忙しすぎて頭から抜ける事も多かった。

友人関係や人に振り回されてばかりだ。

そして、人生がまたつまらなくなると思い、それで思考が停止してしまう事も多かった。

 

しかし、HMを見て思い出した。自分自身の人生。面白くするなら、工夫をしなければならない。有意義に過ごすならそれなりに自分で考えないといけない。

 

美味しい料理を毎日食べたい、と思えば毎日美味しい料理を作る練習をすればいいし

歌が上手くなりたいと思うなら、毎日上手くなるように歌い方や発声方法を自分なりに工夫すればいい話だ。

 

ここ何年かでいわゆるハウツー本といった人生の見本的な本が増えた。

はっきり言おう。あれは、人間としての生き方としては参考にできるが、”自分”の参考にはならない。

 

自分がどんな風になりたいか、という事はハウツー本を見たところでわからない。

その通りにしたところで最初は長続きしても結局うまくいかない時が多い。

 

ああいった本は資料程度に読むことで自分の中で合うように方法を工夫する必要性が非常に大きい。

 

といった所で長くなったが、いつも言っている。

 

自分の人生なら、自分で変えてみせろ。

まめな日記その12 ~工夫~

ハクメイとミコチ』は神作品(以下”HM”とする)

 

今日も今日とて日記を書く。

 

一人暮らしをしていると、「生きる」ということについて心底考えさせられる機会が多い。

 

昔にも書いたかもしれないが、炊事、洗濯、掃除がたまの暇つぶしや趣味ではなく生業として成り立たせなければいけないのが一人暮らしだ。

いわば、”一人暮らしの三大欲求”といった感じだろう。どれが欠けても充実とした、というか必要最低限の暮らしはできない。

 

だが、そんな日々の活動の中で感じるのは自分は生きているという感覚だ。

これは友達と一緒に居る時でも、家族団欒をしているときでも体験することはできない。

 

最近、HuluでHMを見ている。

HMとは、僅か3~4センチ足らずの小人の主人公たちが生を楽しむ事をテーマとした。作品だ。

 

彼女ら(主人公は二人いて、どちらとも女の子)は前述した身長でありながら、自身の何十倍も高くて大きい木や動物や植物が存在する森の中で暮らしている。

 

よって、充実した生活を送るためには”工夫”が必要不可欠なのだ。

 

例えば、我々にすれば数十センチの石っころが、彼女らにしてみたら数メートル級の大岩になりえるわけだがこれを利用するという話がある。

 

細かい説明は省くが、彼女らがこの大岩を利用するためには割る必要があったのだが、彼女らはスイカの種を利用する事によってこの大岩を砕く事に成功した。

 

これはまさに、工夫を体現したようなエピソードだが、普通ならスイカの種を利用して大岩を割るなんて発想は生まれないだろう。

 

このような発想なできる時点で彼女らは普段から工夫を凝らして暮らしている事が大いにわかる。また、彼女らは人生を有意義に暮らすため、要は「楽しむ」ために生きている、という事も理解できる。

 

私は「つまらないのが人生だ。だが、それを面白くすることも人生だ」といった事を考えて日々を暮らしている。

 

自分が危機的な状況に陥っても、普段から嫌な事があってもこれを考えていれば、「次はなにをするべきか」と切り替えて考えられる。

 

最近は、忙しすぎて頭から抜ける事も多かった。

友人関係や人に振り回されてばかりだ。

そして、人生がまたつまらなくなると思い、それで思考が停止してしまう事も多かった。

 

しかし、HMを見て思い出した。自分自身の人生。面白くするなら、工夫をしなければならない。有意義に過ごすならそれなりに自分で考えないといけない。

 

美味しい料理を毎日食べたい、と思えば毎日美味しい料理を作る練習をすればいいし

歌が上手くなりたいと思うなら、毎日上手くなるように歌い方や発声方法を自分なりに工夫すればいい話だ。

 

ここ何年かでいわゆるハウツー本といった人生の見本的な本が増えた。

はっきり言おう。あれは、人間としての生き方としては参考にできるが、”自分”の参考にはならない。

 

自分がどんな風になりたいか、という事はハウツー本を見たところでわからない。

その通りにしたところで最初は長続きしても結局うまくいかない時が多い。

 

ああいった本は資料程度に読むことで自分の中で合うように方法を工夫する必要性が非常に大きい。

 

といった所で長くなったが、いつも言っている。

 

自分の人生なら、自分で変えてみせろ。

まめな日記 その11 ~去る人、来る人~

やっと私の地域もあったかくなってきました。

他の地域はもう暑いくらいでしょうか。、

 

今日も今日とて日記を書く。

 

インスタやLINE、YouTubeでよくこういう言葉を見る。

「去る人は追うな」

 

まあ、普通に考えて相手から離れていった場合これを追う必要も、労力をかける意味もないという意味なんだろうが、なんかこれぶっきらぼう過ぎないか。とも思う。

 

ただ、今回のこの言葉に関しては人によって色んな考え方があるだろうが、私にとってはあまり気に食わない言葉である。

 

確かに、相手から離れていったらそれまでなのかもしれないのもわかる。理由が自分にあったにせよ、相手にあったにせよ結局それは合わない。という事なのだから。

 

ただ、それが離れて欲しくない人だったらどうする。

そういうもんだと受け止めるのか。

 

え、それ長い関係の友達なんてできなくね。

 

いや、長さに固執する必要がないのがわかる。しかし、時間が経たないと相手の事が理解できないケースがほとんどだ。遊ぶにしろ、その後考えるにしろ。

 

相手が100%気の合う人だってわかるエスパーみたいな人はもう勝手にやってくれ。

 

私たちはエスパーじゃない。人間だ。

 

相手の事は話さないとわからないし、この世界は全て運命や、ドラマのストーリーみたいに進行するわけじゃない。要は、誰かが用意する世界じゃない。自分が用意しなくちゃいけない世界だ。

 

友達関係なんてものはそれが遠慮なく発揮されるものだろう。自分の付き合い方によって自分も取り巻く世界も変わっていく。

 

さて、本題に戻ろうか。

 

”去る人は追うな”

 

初対面だったらこれでもいいと思う。だけどそんな事していたら自分の本当の理解者なんて現れないんじゃないだろうか、とも思う。

 

去ってしまったらそのままバイバイフォーエバーはちょっとナンセンスだろ。

 

一度追ってもいいんじゃないかな。

 

一度追ってみてぶつかる事もあるかもしれない。

ぶつかって、また相手が去っちゃうかもしれない。

でも、自分が本当に付き合いたいと思える相手だったら、私は理解できるまで追ってあげたい。相手が何故苦しんでいるのか、自分と何故合わないと思ったのか知りたい。

 

理解してこその友達だと思うから。

 

好きだとか、嫌いだとか、そんなことどうでもいい。

嫌いだから友達をやめる?は?んな事した時点でそんな奴は友達じゃない。

 

極論かもしれないけど、衝突し合えてこその友達だと思う。

 

昔、ある論文に書いてあった、「お互いが平等な関係じゃないと喧嘩は起きない」

 

友達は親族や親戚以外で唯一平等になれる他人だ。

 

だったら、一回くらい喧嘩したっていいじゃないか。

それがお互い認め合ってるって事じゃない。

 

疲れるかもしれない。苦しい事もあるかもしれない。

 

そう思って諦めるのも一つの選択肢だと思うよ。

 

ただ、俺は追いたい。

そうやって友達になれるんだと思うから。

 

たまにはさ、頑張ってみようよ。年一とかでいいから。

まめな日記その10 ~価値観~

早寝早起きってちょっと嬉しい人です。

 

今日も今日とて日記を書く。

 

バイトをしていてよく不愉快なおじいさんを見かける事がある。不愉快と言うと聞こえが悪いかもしれないが、声をあらげたり、先に並んでいる人がいるのに列を割り込んだり、自分が間違えただけなのに店員側のせいにしてくるような人は不愉快ではないのだろうか、と勝手に自問自答している。

 

近年だと、このような人の事を「老害」と言われる風潮があるだろう。私は大変好きな言葉だ。的を得ている。”老”いてる”害”、最近の老人には良くみられる傾向だろう。

 

とまあ、一見老害に対する愚痴か?と言われれば否定はしない。実際、老害という存在は時代遅れで、価値観も違うし、何より不愉快だ。

 

しかし、「価値観が違う」という点に少し注目してみる。

 

確かに老害と自分とで価値観が違うと感じた事はある。

 

機械は信用ならない。

最近の若者は何を考えているかわからない。

といった具合にだ。

 

でも、よくよく考えてみよう。そういう価値観の差異が起こるのって当たり前じゃないか。

 

例えば、機械は信用ならない。おそらく、幼少期から便利な機械に触れていなかった事からこのような発言が出るのだと思うが、よく考えれば昔から触れていなければ信用がおけないのは当たり前だ。だって、自分の中で機械に対して信用がおけるような経験をしてこなかったのだから。

 

簡単に言おう。

さいころから機械に触れていなかったから信用できないんだ。

 

小さい頃と言っても物心つく頃だが、私の世代は物心つく頃には携帯に触れていたし、何よりゲーム(DS)が大流行した時代だった。要は経験積みまくっているのだ。

 

しかし、今の60代、70代はどうだろう。

確か、50代の母が働き始めた頃にショルダーフォンなんかが出たって言うから、下手したら携帯に触れたのは30代中頃なんかの人が多いんじゃないだろうか。

 

それなら、私たちと同じ土俵で同じ価値観を共有したいっていうのはちょっとナンセンスな気がする。

 

なんせ、歳を重ねれば重ねるほど価値観っていうのは凝り固まってくるし、年数的に私たちよりもハイテクを経験していても、情報導入量は月とすっぽんだ。

 

価値観は人によって違う。個人単位で違うなら、年代単位で違わないはずはない。なら、私たちが不愉快な老人の事を「老害」を称するのには些か前提条件が間違っている気がする。

 

彼らは彼らなりの”当たり前”を生きているだけだ。私たちと同じように。

当たり前を生きて、それが害だと言われてなら自分に置き換えるとどうだろう。

 

ちょっと悲しいな。

 

しかし、そこで「歳だから」と言い訳する人がいる。

 

それはそれでちょっとナンセンスだ。(ナンセンスって言葉好き)

 

言い訳はいわば、努力の放棄だ。

私は努力という言葉は嫌いだけど、まあ、頑張りでいいか。

 

言い訳してしまえば、「私は頑張りません」と言っているのと同じに聞こえる。一種の思考放棄なわけだが、それでは人間性は上がらないだろう。

 

いいや、違うな人間性とかそういう事を言いたいんじゃない。

 

そんな人生ほんとにおもしろいのか?

って言いたい。

 

頑張りもせずにただ年数だけ経過して、結局「歳だから」と言い訳する。

 

そんな野郎はくたばってしまえ。と素直に思う。

 

老害」って言われて悲しくなるだけなら、同意するよ。

だって、自分も言われたら多分悲しいから。

 

でもそれで「歳だから」とあきらめるんなら、同情も同意もしない。

そのまま、言い訳ばかりして人生を終えろ。それがお似合いだよ。

 

ってまた愚痴に走った。

悪い癖だな。

 

まあ、とりあえずは自分の人生くらい言い訳しないで頑張ってくれたら「老害」なんて言葉消えるんじゃないかな。

 

世の中に他人の価値観を知れない人なんてごまんといる。

 

なら、自分で守っていくしかないじゃん?

 

自分の人生なんだから。

 

年季の差を見せてみてよ。

まめな日記 その9 ~会話~

自分は割と惚れやすい性格だと思う。

 

何かで依存する事でしか自我を保っていられないから。

 

優しくされる、これに応える、好きになる。

いや、違うな、気にかけられる事自体がもう嬉しいんじゃないか。

 

でも自分からいけないから惚れやすい分見切りをつけるのも早い。

 

失礼だろ。

 

相手から返信が来なくなっただけで自分を好きじゃなくなった?

自分の事を嫌いになった?

 

そこまで考えてるわけないだろ。

 

ただ、会話が「終わった」だけだ。

 

そこになんの意思も、感情も、感覚も、感動もあるわけじゃない。

相手が無意識に何かしたわけでもない。

 

ただ、「終わった」んだ。

 

おまえはなんでいつも相手からの”0”を+100して考えるんだ。

 

おまえが勝手に足したその100はおまえの中での勘違いそのものだ。

 

なぜ無駄な労力をかけるんだ。

 

相手が足していないならそのまま0として受け止めて見ろよ。

なんでそんな事もできないんだ。

 

って、これじゃ言っている事が日本人の悪態そのものだな。

言い換えてみよう。

 

見方を変えてみるんだ。

 

相手は今その時に「終わった」んじゃないだ。

元々100あって、90、80、70...とだんだん0へと向かっていって、話尽くせたから0になったんだ。

 

話すたびに会話量が徐々に減っていっただろ?

 

え、最初はたくさん話していた?なんで、ずっとたくさん話さないって?

そりゃずっと話してたら話題は尽きてくるし、ずっと100伝えても疲れちゃうだけだ。

 

だから、相手は少しずつ少しずつ話せるように気力を割いてくれたんだ。

よって、最終的に0になった。相手は話尽くしたんだ。

 

じゃあ、相手は話尽くしたからもう話してくれない?

 

そんなわけないだろう。

 

話す事は走る事や歩く事と一緒だ。

ゆっくり歩けば、長い距離を移動できるし、早く走ればすぐ体力は尽きてしまう。

 

会話なら、ゆっくり話せばそれだけ長い間話す気力を維持できるし、余裕を持って話せる。逆に早く、たくさんたくさん話せば、体力も尽きるし疲れるだろう?

 

なら、この後何をしなくちゃいけない。

 

そう休憩だ。

 

相手は歩き疲れたからちょっと休憩に入ったんだ。

ちょっとくらいは休ませてあげようよ。

 

あと、自分はどうだ?疲れていないか?

長い間話して少し疲れただろう。

”また”話すためにも休憩してみればいいんじゃないか?

 

急がば回れ」ってあるだろう。

そんなに急がなくても相手は逃げないさ。逃げる相手ならそこまで自分の事は思ってくれていなかったんだ。そう思った方が気楽だ。

 

話し方が楽しそうだろうと、昔仲が良かろうと、長い間仲が良くても人間の本心なんてわからないもんだ。

 

だから、相手の無意識的な行動を見てみよう。

あとは、自分がその人と仲良くしたいかどうかだ。

 

これからも仲良くしたいならもっと相手の事を知らなくちゃ。

幼馴染?気の合う友達?関係ない。

 

自分は、その人と四六時中一緒にいるの?仕事もプライベートも何をしているか知っているの?離れているのにわかりっこないじゃない。

 

だから、相手を理解する事に終わりはないよ。

相手を理解できたら今よりもうちょっと自分勝手を抜け出せるんじゃないかな。

 

でも、考えすぎはダメだよ。

これも適度に休憩しなきゃ。疲れちゃうからね。

 

見方を変えると相手の行動は納得のできるものへと変わっていく。

あとはこれを自分の立場になって考えてみる事だ。

 

これが、自然にできるようになったら少しだけ大人になるんじゃないかな。

まめな日記 その8 ~気を遣う~

今日は深夜であるが友達との会話で気づかされたことがあるので日記を書く。

 

最近、小学校時代の同級生とLINEで話すことが多い。そいつが中学時代に転校してしまった影響なのかもしれないが、やたら自分から話しかけている。私がプライベートで自分から人に話しかけるなんて一年に一回あるかないかくらいなんだが。まあ、後は単純に仲が良い。

 

が、私は人に気を遣う事が常日頃から身についているせいで友達と話すときに一つ問題がある。

 

それは、「話しかけてもいいのかな」と仲の良い友達でも躊躇してしまう事だ。

 

LINEをしていても、酒が入っても、気分が良い時でも相手に気を遣ってしまう。

「あ、ここは空気を読まないと」

「相手が不快にならないようにしないと」

「会話で盛り上げてあげないと」

 

とそればっかり考えている。

 

まあ、相手からすりゃ

「そんな考えてもしょうがなくない?」となるだろうが。

 

私自身気を遣う事自体は別に悪い事ではないと思っている。いや、思っていた。

 

”親しい仲にも敬意あり”

 

私の大好き、というか人間関係のモットーになっている言葉だ。

いくら親しい相手でも相応の敬意を持って接するべきである。

 

しかし、先ほども言ったように相手からすれば気を遣われてあまりいい気はしない。

 

でも言ってしまった。私の悪い癖だ。

「めちゃめちゃおまえの気分気にしてLINE送ってるんだよね」←実際の文章はこんな感じじゃない。

 

そして、先ほど冒頭にあげた友達に率直に言われた。

 

「気を遣われていると話し辛い、こちらも気を遣ってしまう」と。

ここまで率直に言われたのは初めてだった。

 

「え、気を遣ってるのってそんなに悪く感じる?」

 

自分の立場に置き換えて考えてみた。

 

相手がめちゃめちゃ気を遣ってLINEを送っていたらどうだろう。

相手がめちゃめちゃ気を遣ってゲームに誘ってくれたらどうだろう。

 

正直に言おう。いい気はしなかった。

 

「気を遣うくらいなら誘うな」と思ってしまうくらいに。

 

気を遣ってしまうというのは不信用の裏返しだ。

相手をよく理解していなく、かつ信用していないから本音が言えず、結局気を遣っている事で関係をごまかしている。いわば、友達と言ってもほぼ赤の他人と話すのとなんら変わりない。

 

ああ、俺は良かれと思ってやっていたのに相手にただ気を遣わせただけじゃないか。

最悪だ。

 

だから、離れていったのか。

今まで仲が良いと思っていた少数派の友達は。

 

後悔だ...。

 

最悪だ...。

 

そりゃ常時気を遣ってるやつと一緒に居たら居心地悪くなるよな。離れたくなるよな。

ごめん、おまえを信用できなくて。

 

罪悪感だ。

 

だけど、相手に気を遣わない方法がわからない。

どうやったら気を遣わなくて済むんだ?

 

今まで気を遣ってでしか人生生きていないから方法が全く思いつかない。

 

いや、でも本当は思いついてるのかもしれない。

それを無理やり考えすぎる事で抑え込んでいるのかもしれない。

 

だけど、今この日記にだって見る人に対して気を遣っている。

 

性なのかこれは。

 

でもさ

 

俺はこうやって行き詰った時いつも何をする?

 

今ばっかり見てもしょうがない。

今も見つめて、前も見ないと。

 

今に罵詈雑言しているだけじゃ現状は変わらない。

 

大切なのは今じゃない。これから何をするかだ。

 

現状を分析して、これから自分が何をすればいいか考えろ。

最適な未来を見つけろ。

 

そこまでたどり着けたならおまえも少しは成長しているんじゃないか?

まめな日記 その7 ~祝福~

今日は一日オフなので日記を書いていく。

 

恋愛関係による嫉妬っていうのはどう対処しよう。

 

「私も彼氏が欲しい」「恋愛イベントを楽しみたい」

「他人に見せつけたい」など人と付き合いたいと思う人たちは他人が付き合った事に対する嫉妬が起こりやすいのではないだろうか。

 

「あいつは私よりも幸せだ」

 

こんな嫉妬心は醜い以外の何物でもない。

 

しかして、これは赤の他人に対してならあまり問題ないだろう。

なんせ、その場で「あー幸せそうだな」と短時間嫉妬して終わりだから。

 

だから、嫉妬する事自体はあまり良くないとは思うが、悪影響自体は大してないと感じる。

 

だが、このような嫉妬が友達に向けられたらどうだろう。

 

長年付き合ってきた友達が急に人と付き合い初めて、惚気を聞いて嫉妬する。

 

なぜこんなことが起こるのか。

 

それは友達を勝手に「自分と同じ境遇でいなくちゃいけない」と勝手に決めつけてるから。

 

だから私と違う幸せな環境に勝手に友達が身を置いたらそれだけで嫉妬が発生する。

しかも、友達というだけに持続的に関係を持つ他人であるため、短時間で嫉妬が消えない。その友達と一緒にいる間は頭の片隅に嫉妬心はうごめいている事になる。

 

こういう時はどうするべきか。

 

答えは「友達だから」と私より幸せになった事を祝福する事だ。

 

私たちは、人間だ。嫉妬だってするし、悲しくもなるし、時には自分も幸せになって笑顔になる。嫉妬する事自体は仕方ない。

 

しかし、大事なのはその後だ。

 

私が嫉妬して、その後友達に対してどう接していくのか、どう意識していくのか。

 

そう考えた時に友達というものは私にとってなんなのかを考える事になる。

 

友達はかけがえのない存在であり、赤の他人とは違う。一緒に笑い合って、感動しあって、悲しい思いまで経験した心の通える存在は友達じゃないのか。

無意味な嫉妬心で相手のイメージが崩れるならそれはもう友達じゃないだろう。

 

なら、私が素直になって友達を祝福してあげるのが”通り”というものだ。

 

最初の”私より”という言い方はあまり良くないかもしれないが、こういう時には割とはっきり比較関係を意識したほうが相手に対して素直に祝福できる。

 

「あいつは私より幸せに”なってくれた”」そう思うだけで彼、彼女の幸せが自分の幸せのように感じることができる。素直に嬉しい。と私は感じる。

 

最近は彼女が幸せそうだ。

今度、彼氏の誕生日があるらしい。サプライズを考えてるそうだ。成功してくれると嬉しい。手伝える事があれば手伝いたいし、何も無いんなら成功談を楽しく聞いてあげたい。

 

ああ、よかった。本当によかった。

今度は私も自分のために頑張ってみよう。