早寝早起きってちょっと嬉しい人です。
今日も今日とて日記を書く。
バイトをしていてよく不愉快なおじいさんを見かける事がある。不愉快と言うと聞こえが悪いかもしれないが、声をあらげたり、先に並んでいる人がいるのに列を割り込んだり、自分が間違えただけなのに店員側のせいにしてくるような人は不愉快ではないのだろうか、と勝手に自問自答している。
近年だと、このような人の事を「老害」と言われる風潮があるだろう。私は大変好きな言葉だ。的を得ている。”老”いてる”害”、最近の老人には良くみられる傾向だろう。
とまあ、一見老害に対する愚痴か?と言われれば否定はしない。実際、老害という存在は時代遅れで、価値観も違うし、何より不愉快だ。
しかし、「価値観が違う」という点に少し注目してみる。
確かに老害と自分とで価値観が違うと感じた事はある。
機械は信用ならない。
最近の若者は何を考えているかわからない。
といった具合にだ。
でも、よくよく考えてみよう。そういう価値観の差異が起こるのって当たり前じゃないか。
例えば、機械は信用ならない。おそらく、幼少期から便利な機械に触れていなかった事からこのような発言が出るのだと思うが、よく考えれば昔から触れていなければ信用がおけないのは当たり前だ。だって、自分の中で機械に対して信用がおけるような経験をしてこなかったのだから。
簡単に言おう。
小さいころから機械に触れていなかったから信用できないんだ。
小さい頃と言っても物心つく頃だが、私の世代は物心つく頃には携帯に触れていたし、何よりゲーム(DS)が大流行した時代だった。要は経験積みまくっているのだ。
しかし、今の60代、70代はどうだろう。
確か、50代の母が働き始めた頃にショルダーフォンなんかが出たって言うから、下手したら携帯に触れたのは30代中頃なんかの人が多いんじゃないだろうか。
それなら、私たちと同じ土俵で同じ価値観を共有したいっていうのはちょっとナンセンスな気がする。
なんせ、歳を重ねれば重ねるほど価値観っていうのは凝り固まってくるし、年数的に私たちよりもハイテクを経験していても、情報導入量は月とすっぽんだ。
価値観は人によって違う。個人単位で違うなら、年代単位で違わないはずはない。なら、私たちが不愉快な老人の事を「老害」を称するのには些か前提条件が間違っている気がする。
彼らは彼らなりの”当たり前”を生きているだけだ。私たちと同じように。
当たり前を生きて、それが害だと言われてなら自分に置き換えるとどうだろう。
ちょっと悲しいな。
しかし、そこで「歳だから」と言い訳する人がいる。
それはそれでちょっとナンセンスだ。(ナンセンスって言葉好き)
言い訳はいわば、努力の放棄だ。
私は努力という言葉は嫌いだけど、まあ、頑張りでいいか。
言い訳してしまえば、「私は頑張りません」と言っているのと同じに聞こえる。一種の思考放棄なわけだが、それでは人間性は上がらないだろう。
いいや、違うな人間性とかそういう事を言いたいんじゃない。
そんな人生ほんとにおもしろいのか?
って言いたい。
頑張りもせずにただ年数だけ経過して、結局「歳だから」と言い訳する。
そんな野郎はくたばってしまえ。と素直に思う。
「老害」って言われて悲しくなるだけなら、同意するよ。
だって、自分も言われたら多分悲しいから。
でもそれで「歳だから」とあきらめるんなら、同情も同意もしない。
そのまま、言い訳ばかりして人生を終えろ。それがお似合いだよ。
ってまた愚痴に走った。
悪い癖だな。
まあ、とりあえずは自分の人生くらい言い訳しないで頑張ってくれたら「老害」なんて言葉消えるんじゃないかな。
世の中に他人の価値観を知れない人なんてごまんといる。
なら、自分で守っていくしかないじゃん?
自分の人生なんだから。
年季の差を見せてみてよ。