今日は少し余裕があるので日記を書いていく。
最近はゼミやら、課題やら、友人関係やらで追われる毎日だ。
こんなに忙しいのは何年ぶりだろう。鬱陶しいが、楽しい毎日だ。
しかして、一つの疑念を抱いた。
私は本当にこんな毎日を好んでいるんだろうか。いや目標からは遠退いているのだろう。
友人と会い、話をして、やれ推しはなんだの、やれ天気はなんだの...今日の晩飯を考えて、洗濯物を干し、明日の講義の確認をする。
そんなこんなで家でまったり。
日記では語った事は無いが、私は常に「充実感」を目指し行動している。楽しむ事も大事だが、何よりも自分に「プラス」になる事が重要だ。
損得勘定で行動するな、と言われそうだが今は他人の意見なんてどうでもいい。
以前自分は何をやっていた。
家で課題、家で会話、家で洗濯、家で講義。
そして、次何をしたら「プラス」になるだろう。と考えてはずだ。
環境、というものは人を鈍くさせる。
いざ、話せる環境、自分が一定水準以上「満足」できる環境ができればそれで人間は考えなくなってしまうものだ。
私はもっと上にいきたい。
完了主義ではなく、完璧主義にしよう。
人間的な生活に正解はないが、完璧はある。
しかし、人間は完璧にこなす前に年老いて死んでしまう。
だから、「完璧な人間はいない」と言われる。
だが、それで終わったら人生面白くないだろう。
面白いことは「プラス」な事。
面白くないことは「マイナス」な事、つまりは死だ。
面白くないことになってしまっては人間的に死んでしまう。
それで肉体的にも寿命を終える?考えたくもない。
人間は精神的を病むと寿命にも影響するらしい、延びたり縮んだり。
そりゃあけったいな話だなと思う。
なら、少しでも「プラス」に生きて人間らしくいこうじゃないか。
自分の人生だ、何をやっても自由だ。
自由、だけど失敗正解がつきまとう。
じゃあ目指すのは自由な正解?
自由な正解?なんだそれは。
じゃあ正解の自由?これもしっくりこない。
考えてみたが、結局あんまりしっくりと来るものはなかった。
だが、考えてみると正解だけやっている人間は失敗を経験していないとその後の対処法がわからずに頓挫してしまう可能性がある。
なら、目指すのは。
正解になれるような自由。じゃないだろうか。
正解、失敗の経験関係なく最終的に正解になればこっちのもんだ。
自分の人生は自由なんだから。