今日はちょっと宗教についても考えたくなったので書く。
宗教、と聞くと「危ない」「洗脳」「オウム真理教」なんかが出てくる。少なくとも私の世間一般演算装置はそう言った。しかして、私の本心はというと宗教に対して「鬱陶しい」がほとんど。
酷く親近感が湧くような考え方。
私の人生、「宗教」というのは何者にも代え難い「否定」と同様の扱いの代物なもんで。
「こういうのがいいんだよ」「これをするべきだよ」「これをすれば絶対救われるから」、宗教勧誘でもよく聞くフレーズ。
実際よく聞く。
しかし、このようなフレーズは相手の生き方を「否定」していると何故気づかない。
「これがいいんだよ」「これをすれば救われる」といった言葉は相手の人生を
一見いい方向に導いているように見える。
選択肢を与えている。
相手の選択肢を良くしようとしている。
ように聞こえる。
少なくとも相手はそう言っていたんだろう。
しかし、それは
「私の言った事、成功している皆が言っている事を君がしないことは間違っている」と同義じゃないのか。
これは極論かも。
でも、そう思ってしまったんだから仕方ない。
確かに成功したのかもしれない。そうすると良くなるのかもしれない。
でも、それは「あなた」の価値観であって「わたし」の価値観じゃない。
「あなたはわたしじゃない」(〇マたくさんから引用)
そう、あなたにとっては正しい事でも、私にとっては正しくない。ふさわしくない。合わない。これが本音。
価値観の押しつけは良くないだろう。
何故理解できない。
なんだ、おまえたちのやりたいことは当人が嫌がっている価値観を押し付ける事なのか。
とまで言ってしまうとただの愚痴になってしまう。
言いなおそう。
あなたたちは「ゴミを食べるのは体にいいのでやりましょう!効果は出ています!成功者もいます!やりましょう!」と言われてやるって事ね。
要は、相手にとって嫌な事って言うのは未知で目立って、明らかに自分の価値観的には汚らわしい、鬱陶しい、煩わしいって事を押し付けるって事。
ってやっと最近言葉にできた。
日本に生まれたからなのかもしれないけど、人と違う事は嫌だって教え込まれているんだ。
目立つ事がプラスだと考えられなければ嫌だし、考えたくもない。
なのに、「○○でもいいから初めてみようよ」と進めていくのは傲慢すぎやしませんかね。
私は私だ。
誰に言われたからやるっていうのは気に入らない。
プラスだと思えなかったらもっとやりたくない。
それが私の考え。何者にも代えがたい私の考え。
「これは凄い考え方なんだよ?」
「これは自分を動かしてくれる原動力なんだよ?」
こんな考えを”聞くだけ”ならいいよ。
しかし、一見して良いと思えない時点でそれが良い物なのかわからなくないか?
これは思想に関してはかなり明確。
思想は自分にとって良い、悪いが判断しやすい。
友達と仲良くしない事が良いことです!
家族と仲良くしない事が良いことです!
果たしてこれを聞いて良いか悪いかなんて明確だと思う。
「いやいや、友達と仲良くしすぎるのは良くないよ!」
いや、聞いてない。
そこにあからさまにダメな理由があるなら認める。
あなたたちの場合あからさまに宗教をやって良い理由が無い。
じゃあプラスじゃないじゃん。
素直になりましたが、何か。
こういう事ですが。
あなたたちが私に良い人生を歩んでほしいのも、幸せになって欲しいのもわかる。だって、言ってくるのは家族だから。
でも、他人から押しつけがましくして丈夫なほど私の人生は甘っちょろいもんじゃない。
考えられるならもっと考えて。
家族、が一番なんでしょ?考えてよ。
あなたたちは私が友人=家族くらいの価値があると思ってたら悲しいんでしょ?
だったら、相手の考えを覆せるくらい考えてよ。
少し熱くなってしまった。
自分勝手で理不尽でぶっきらぼう。
それが人間だ。
宗教はそんな人間の中に共通項を見出した文化だと思う。
もしくは共通項を生み出す文化だと思う。
でも、その共通項に人を勝手に押し込むのは良くない。
家族がそうだから、おまえもそうなってるは違う。
気持ち悪い。自分が。
苦しい。なんでこんな事考えなくちゃいけないのか。
人間だから。
おまえが人間だから。